絞りって何?!
■日本最古の染色~絞り~
絞り染はわが国でも6・7世紀頃には既に行われていた染織の代表的なもので、現代のわれわれの生活を美しく彩っています。 その技術は、糸で布地を強く括ることにより、「粒」や「しわ」を作る防染という簡単な原理によるものであり、昔から世界各地でも様々な絞り染めが行われていました。 現在でも日本の他、インド、アフリカにみられ、また中央アジアやペルーの遺跡からも絞り染が出土しています。このことはその技法が極めて簡単なものであるため自然発生的に各地で行われたものと考えられます。そしてわが国に伝えられて以来めざましい発達を遂げ、日本を代表する伝統染織となり現在も広く愛好されています。
■~近世(江戸時代)~
日本の絞りは大きく二つに分類することができます。
一つは絹地に精緻な絞りを施した「京鹿の子」です。「京鹿の子」とは、京都を産地とした「疋田鹿の子絞り染め」の総称です。 江戸中期以後は「疋田鹿の子絞り」以外にも多くの技術の開発、進展がみられ、後の京絞りをさらに発展させていきます。江戸時代の「鹿の子」の遺品は多く、特に、下絵も描かず、鹿の子針も使用せずに、指先の感覚だけを頼りに括った「本座鹿の子」の精巧な職人芸には驚嘆します。
従来の絞り染めは、絞りのしぼ(しわ)のことは重要視していませんでした。防染の為の、また染め分けの手段としての絞り染めであったために、染め上がった後の特有の凹凸は伸ばしてしまうのが通例でした。 しかし江戸期に入ると、後述する「摺疋田」や「打ち出し鹿の子」などの模造品と区別するためにも、象徴的な布面のしわを大切にし、凹凸を残すことで手仕事であるという付加価値をつけ、高級品であることを強調したのです。
一方、麻地や木綿に「藍」を用いた庶民的な絞りもあります。 これは元来、自家製自家用であったものが専業化して、技術的にも少しずつ洗練され、商品として扱われるようになったものです。 これが最も活発に行われたのが豊後(大分)、高瀬(熊本)、そして尾張名古屋の有松、鳴海を中心とする地区です。木綿の絞りは、江戸時代の初期、九州の豊後(大分)肥後の高瀬に存在したことが「毛吹草」という本に記されています。 「豊後絞り」は1600年の初め頃には既に括りはじめられていたらしく、江戸時代から明治末期までの紀行文や産物本、浮世絵などに多く記されていることから全国的に広く知られていたと思われます。
慶長年間から寛永年間(1600年初め)にかけては、徳川幕府による新しい社会体制の地固めの時代でした。その時代の着物は、慶長小袖、慶長紋様などと呼ばれ、黒地を多用し、紋様は絞り、刺繍、摺箔によって表現さものが多いことが特徴です。 このころの絞りについての話では、寛永十二年の正月、将軍家光が伊達政宗の招きに応じて踊り見物をした際、政宗は「ひわ鹿の子」の小袖を着用していたそうです。また、七月には徳川義直がやはり家光を招いて踊り見物をしていますが、このときの踊り子がちりめんの「紅鹿の子」の帯を締めていました。 徳川期の絞りは、裕福な町人の文化のなかで隆盛をみせます。手間の掛かる総絞りの着物は費用を惜しまない町人の財力の豊かさを示し、芝居と遊里は着物の流行の源泉となりました。
その江戸時代の絞り染めの着物を支えてきた「芝居」と「遊里」を考えてみましょう。江戸時代の社会は厳しい管理社会で、衣食住の殆どが武家的な倫理で統制されていました。その中で唯一解放された世界が「遊廓」や「芝居見物」だったのです。士農工商の身分と職業の秩序で構成された封建社会の中で、この二つだけが秩序外の世界とみなされていました。幕府の巧妙な管理政策と言えるでしょう。 華麗な小袖は、幕府の大名、高級官僚、宮廷の公卿、裕福な町人、そして遊里の太夫たちに好まれました。そんななかで鹿の子がもてはやされたのは当然のことでした。 例えば太夫鹿の子というのがあります。麻の葉紋様などは、それを好んだ岩井半四郎にちなみ、半四郎鹿の子などと言われ、芝居役者の衣装は常に流行の源だったのです。
やがて、鹿の子を用いた衣類は江戸、京、大阪などの大都市に限らず、地方都市でも広く用いられるようになりました。そのことは、当時の質入れの帳簿の記載に鹿の子が多くみられることでもわかります。 しかしこの様な華やかな流行に対して、幕府は価格の統制による倹約を試みます。 これが鹿の子の全盛に大きな打撃を与えることになります。
天和三年二月に発せられた「總鹿の子禁止令」です。この禁令に伴って紋様の表現方法も変わらざるを得なくなり、「友禅染め」という、新しい紋様染めが現われることとなりました。新規の紋様染め「友禅」と禁令とがあいまって、以後は鹿の子による紋様の表現は、相対的にその地位を低下させていきます。 この禁令について「本朝二十不孝」(貞享三年)の中で、金沢の絹問屋の話があります。娘小鶴の嫁入り道具を揃えるについて「衣装は、御法度は表向は守り、内証は鹿の子類さまざま調べ」とあります。この御法度とは言うまでもなく天和三年の禁令のことですが、この文からすると、この禁令はさほど厳格なものではなかったようです。 婦女子の衣装が贅沢に流れることに対する禁令は、さきの天和三年のものが有名ですが、これに次いで享保九年にも倹約令が出されています。これは寛政元年に再度確認され、町触れとして通達されています。このあと天保十三年(1842年)後半、かの有名な水野忠邦の倹約令が発布されます。江戸には市中取締役が置かれ、町々を巡回し、風俗を調査させて、華美、贅沢を厳しく取り締まったのです。
■~辻ヶ花~
十五世紀より室町末期から安土桃山、江戸初期まで流行した「辻ヶ花染」は、絞り染めを主体とした絵模様染めに描き絵や刺繍、摺箔などを加えたものを指します。 しかし、「辻ヶ花」という言葉がいつ生まれ、どのような染め織物なのかは正確にはわかっていません。 「辻ヶ花染め」の発生を歴史的にみてみると、従来、庶民や下層階級の武家の衣服であった小袖が、室町時代頃に上層階級の表着としても着用されるようになるところからはじまります。
それまで内着として白無地が普通であったものに紋様がつけられるようになり、中世の武士や庶民の衣服に利用されていた絞り染めがまず取り上げられ、更に描絵などを加えることで、「辻ヶ花染め」へと発展していったのです。 そしてそれには、絞りのみで絵紋様を表現したものと、絞りに他の技術を加えたものの二種があり、後者においては絵紋様の描き方が更に二分化され、後の友禅や鹿の子を生む土台となるのです。
十五世紀中頃には庶民の小袖に現われ、やがて武家の女房や子供、若衆へと広がっていきます。しかしこの頃はまだ、成人男子には特殊な場合を除いては着用されることはありませんでした。 そして、戦国時代をむかえ、政治の主導権が公卿から武家へ渡るときに、装いも織から染めへと移っていきます。武将たちの間でも着用されるようになり、「太閤記」では豊臣秀吉が明の使者の帰国に際して贈った品物の中に「辻ヶ花」が含まれていたと記されています。
また、秀吉のほか、徳川家康や上杉謙信の遺品の中にも「辻ヶ花」をみることができます。この頃の「辻ヶ花」の絞りの中に墨絵が描かれており、その墨がぼかし込まれているのは、当時、宋から伝来してきた墨絵の掛軸の影響などもあるのでしょう。 そしてその後、江戸時代に入ってからの「辻ヶ花」は、金箔を置いたり刺繍加工が施されるなど、最初とは違った趣を見せはじめ、次第に豪華に、そして大いに発達していくのです。 こうして中世における絞り染めの発達を背景に、本来下着であった小袖が表着として使われるようになったのは大きな変革であり、近代着物のはじまりと言えるのではないでしょうか。またこのような小袖の表着化が一つの紋様加工技術として成立したことは、中世染織から近世染織への橋がかりとして大きな意義をもっているのです。
本文は京都絞り工芸館館長 吉岡健治が、同志社女子大学の伝統工芸の講義用に作成したものです。